両口屋是清の歴史History
1.尾張藩とともに
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両口屋是清 創業
初代:猿屋三郎右衛門が名古屋・上本町の地にて創業。寛永11年といえば、第二代将軍、徳川秀忠が没し、徳川家光が第三代将軍になって2年後のことである。当時、名古屋の地は、御三家筆頭である徳川義直(家康第九子)が治めていた。
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尾張藩 御菓子御用を初めてつとめる
創業以来の目標であった尾張藩御用をつとめるようになる。創業来、37年を経て、この頃には菓子司として武家や町人の間で評判を得ていた。
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尾張藩主より表看板を賜る
尾張藩主 第二代藩主 徳川光友公より直筆の「御菓子所 両口屋是清」の表看板を賜る。このときにいただいた文字は、現在でも両口屋是清のロゴとして使用されており、暖簾や包装紙などに見ることができる。
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藩の小納戸役をつとめる
三代喜十郎、藩の小納戸役のお菓子御用を1軒でつとめる。小納戸役とは、金銀、衣服、調度の出納をつかさどる役所で、藩からの相応の信頼を得ていたことが分かる。
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六代藩主継友公の母公、泉光院が両口屋是清へお立ちよりになる
交趾国(今のベトナム)から運ばれてきた大象の通過を城下にてご覧に なった帰りに、両口屋是清に立ち寄られた。その折、人形・お盃・楊枝さしなどを下賜された。
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朝鮮使節用のお菓子を尾張藩に納める
将軍家代替わりの挨拶のために来日した朝鮮使節接待用に、400人余りに御菓子を尾張藩に納める。当時は、すべて手作りのためこれだけの数量をお納めするのは並大抵のことではなかったが、無事、お役目を果たす。
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東照宮二百年御遠忌の御菓子御用をつとめる
初代藩主徳川義直が父・徳川家康を祀るために建立した名古屋・東照宮の二百年御遠忌が盛大に営まれた折、御菓子御用をつとめる。
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8代喜十郎、遠州秋葉山へ参拝
この頃より、永年にわたり火防の神として知られる秋葉山の祭事御菓子御用を務める。
2.明治~戦前
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菓子税制制定
九代喜十郎、これより約10年にわたり菓子税撤廃のため東奔西走。
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関西府県連合共催会
名古屋市開府300年記念祭とともに開催。十代喜十郎の「桜雲羹」、一等賞の栄に輝く。
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第一回帝国菓子飴大品評会
前年、名古屋生菓子組合長の十代喜十郎の呼びかけにより、名古屋の地で開かれた第一回全国菓子飴業者大会での 議決を受けて開催。第十回以降は全国菓子大博覧会と名を変える。
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株式会社両口屋是清設立
十一代大島清治が社長に就任。自宅の庭に咲く白い花「二人静(ふたりしずか)」からひらめき、和三盆糖の干菓子「二人静(ににんしずか)」を考案。(発売は終戦後)
3.戦後~
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両口屋是清 戦災を受ける
名古屋市街地を爆撃により、店舗・蔵などが全焼する。
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御幸本町焼跡に工場建設
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銘菓「旅まくら」誕生
愛知国体開催の際に昭和天皇・皇后両陛下に献上する。
全国銘菓復興展示即売会(日本橋三越本店)に出店
松坂屋名古屋店地下名店街に出店より多くのお客様にお菓子を召し上がっていただきたいと百貨店への出店が始める。
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阪急百貨店出店
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餡村雨の棹菓子「をちこち」発売
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小牧工場完成
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名古屋城博「味くらべ尾張城下町」出店
創業350年を記念して、名古屋城博の企画に参加。江戸時代の城下町を模した店舗にて出店。
4. 平成〜
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福岡三越出店
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愛知万博に出店
自然の叡智をテーマにした国際博覧会。老舗和菓子店の一角に出店、記念のお菓子を作成。
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表参道ヒルズに「Rstyle by 両口屋是清」を出店
つくりたてにこだわった新しいタイプのカフェをオープン
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白あんの焼菓子「おときき山」発売
名古屋市のサカエチカに「ふわどらん」出店どら焼き専門の実演販売店。製造スペースをガラス張りにし、お客様に見て楽しんでいただける店舗とした。
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「ささらがた」販売
「大人のプレミアム」をコンセプトに、老舗の味を手軽に召し上がって頂くように開発した個包装・一口サイズの新しい棹菓子。
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東山店開店
名古屋の東山の地に隈研吾氏設計による新店舗。
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東京・新宿NEWoManに「和菓子 結」を出店
「あまのはら」が美しい棹菓子としてメディアで話題になる。
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初代・猿屋三郎右衛門の三百五十回忌
名古屋城正門、金シャチ横丁に「那古野茶屋」を出店
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今上天皇即位「慶祝菓子」販売